↑ カタカムナ文献 第8首


サンプル4

以下は、実際に勉強会でお教えしている内容の一部分をピックアップして、サイト公開用に一部説明を加えたものです。不足している箇所もありますが、詳細は勉強会でご説明しています。
サンプルとして吟味して頂ければと思います。

テーマは「トキトコロ」という言葉に関するの基礎的部分の説明です。
現代を生きる人々が捉える一般的な「時間空間」という概念と、カタカムナの「トキトコロ」、
その違いを周辺の用語を絡めて、少しご紹介しています。

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カタカムナ文献には、ある領域の区分と、その境(際、キハ)にあたるボーダーの機能についての記述があります。その考え方を量子論、古典論などと絡めてご説明していきましょう。

現代の物理学には大きく分けて、ニュートン、マックスウェル、アインシュタインまでの古典論と、シュレーディンガー以降の量子論に区分されます。これは単に歴史的変遷の一区分ではなく、その内容が示す区分です。
前者はその最新バージョンであるアインシュタインの一般相対性理論が、それ以前のニュートン力学などを含んでいると考えられますから、この「相対性理論」対「量子論」という考え方が、科学の世界では一般的です。
しかしながら、この相対性理論と量子論は、どちらが優れているのか?という観点では捉えることができません。それぞれの取り扱うエリアが違うからです。一般相対性理論は、宇宙のような重力を取り扱うマクロサイズの物に対して摘要され、量子論は素粒子のようなミクロサイズの物に対して威力を発揮する理論だからです。
ところが特異点のような問題が持ち上がりますと、一般相対性理論の中で素粒子サイズ以下の物を取り扱わねばならず、この問題に対して「超ひも理論」などの様々な仮説が立てられ、現在もなお活発に議論されている最中なのは「その信憑性について」…などでお話した通りです。

この問題に関してロジャー・ペンローズ(イギリスの数学者、理論物理学者 ホーキングとの共同研究や、ペンローズタイルなどの幾何学でも知られる)は、ある部分において、非常にカタカムナ文献に似た世界観を表明しています。
「量子レベルのサイドは、そこには計算可能で決定論的な世界があり、古典レベルのサイドには、そこにはそこで、また計算可能で決定論的な世界があるが、量子レベルと古典レベルの行き来には、非常に不可思議な計算不能なリダクション(収縮)がある…」という結論に辿り着いているのです。
このリダクションを、カタカムナ文献異本では、エネルギー軸(キ)として示された「キハ、際」の機能と説明されています。ペンローズの説をカタカムナ図象を少しだけ踏まえて図にしますと次のようになります。



量子状態を表す複素数値の関数である波動関数の時間発展には2種類あり、1つはユニタリ発展(決定論的な時間発展、シュレーディンガー方式、上図右半円)と呼ばれるものであり、もう1つは観測に伴う波動関数の収縮(上図右側から左側への変化)と捉えられています。しかしながら、今のところ波動関数の収縮を量子力学の数学で記述することはできません。上図にも示されたように、それらには幾分ランダムな要素があるからです。もちろんランダムも立派な数学ですが、この場合は状態(|ψ>)を記述できない…という問題があるということです。

ボーアらが支持した「コペンハーゲン解釈」では、その収縮をどのように解釈するのか?ということは一旦おいて、道具として認めること(FAPP)にしましたが、ペンローズは、そこになんらかの新しいパラメータがあり、新しい手続き(OR、客観的収縮)が必要であると考えています。
この点について、このサイトの「信憑性についての考察」では、ボーアの人間性を支持しましたが、その理論である「コペンハーゲン解釈」と、ペンローズの「OR理論」では、カタカムナ文献の示す理論はペンローズの「OR理論」に近いと言えます。私自身も別の問題から同様の結論に辿り着いたこともあり、このペンローズの方向性を支持しています。

カタカムナ文献では、常に環境との関連性が絶対条件とされています。それゆえ量子状態のような特定の系のみを扱うことは、その本来性から外れているのです。上図で言えば中央に示された「非局所的」という考え方がそれに相当します。(※FAPPにおいても環境は重要視されています。また量子状態の記述に関して、環境を設定することもできますが、この場合は更に広域を考慮する…という観点から述べています。)
私達の勉強会では、それを一般の人々にも理解し易い言葉として、「エネルギー的、エネルギー性」という言葉で表現し説明しています。
物資性と説明する状態は「その1」にありましたように、「シマ」の頭頂部のような「局所的」な状態であり、エネルギー性と説明する場合は、その「シマ」の下部のように広い範囲を占めている「非局所的」な状態にあるということです。
それをカタカムナが推奨する「カタ」のテクニックで抽象してみますと… 
例えば手に掴める物質は、それを構成している電子の塊と言えます。「シマ」の頭頂部、つまり「局所的」ですね。
その電子の流れや力を、私達は一般に「電気」として認知しています。前述の勉強会の言葉の定義によりますと、手に掴める物質に対して、その構成要素である電気は「エネルギー性を示している」と言えます。「シマ」の海面下です。
しかし、その電気はどのような状態で存在しているのか…ということについては、ほとんどの一般の人達は誤認しています。例えば、電気製品を使う場合に、電気は電線を伝わり、やって来ると思っているような錯覚があります。電気の性質に詳しい方には今さら説明不要ですが、電気は電光掲示板の文字のように、その都度発生し、その位置で消滅したら次の位置で発生…というように受け継がれ、その結果として電気が流れているように感じているに過ぎません。局所部分の生滅を、移動のような状況と錯覚しているということです。電気は非常に広範囲に敷かれたエネルギーの場において、一時的に存在しているに過ぎないのです。そうなりますと、先程「電気はエネルギー(非局所性)」と言いましたことも、立場が代われば「電気は物質性、あるいは粒子性である局所的な存在」と言い換えることもできるのです。
いずれにしましても、こういった広範囲に敷かれたものに拠る特徴的な性質を「非局所的」と表現しているのです。

(※「カタカムナ」において重要なのは、ある特定の固定的事象に対して、1つの名称が与えられているわけではない…という観点です。観測点の変動とともに、単位段階も順にシフトして行くという考え方が必要です。このような相対性を必要とする感覚に、現代人は非常に弱いようです。そもそもカタカムナには完全に固定した状態という概念がありません。)

カタカムナ文献では、そのような意味においての局所的な系(部分)を扱うことを、ある種の単位元と捉え「ヒ・・・」として表現します。反対に広範囲な非局所的な取り扱いについては、具体的な物資性を持つ宇宙などについては「オホ」、現象(ある物質性)サイドからの観測として、その該当の物質性が排除された状況については「カム」や「ヤ」などと表現しています。
では上図の様子はある単位、系から、非局所的な「カム」「ヤ」に行き、その後また客観的な単位、系に移行(時間発展)しているのでしょうか?

そして、ここからがカタカムナ文献の示す物理モデルの非常に興味深いところです。
カタカムナ文献では、そのような非局所的な状況が、現象にとって2種類あると捉えているのです。
これまでも度々前提としてご説明してきたことですが、楢崎氏は、便宜的に「こちら側」「あちら側」を、「現象」と、それに対しての「潜象」という言葉として定義されましたので、それに従ってご説明しますと… 
まず現象にとって潜象は二重構造を持っていることが、カタカムナ文献の一番の特徴です。
(※前述の現象という言葉の定義も全てそれに従います。)
二重構造の潜象のうち1つは、手にとれるような物質に対しての電気のようなエネルギー状態、そしてもう1つは、その手にとれるような物質そのものも電気の塊であることから、その電気全てを含んだ状態に対して、エネルギーとして機能する更なるベーシック部分の状態です。また、この構造性が、例に挙げた特定の物質などだけに当てはまるものではなく、この構造性は連続して全てのものに当てはまる「型、カタ」および「立体構造性において代行するもの、カムナ」として機能している…というのが、カタカムナ文献の示す物理なのです。

現行の科学に馴染みのある名称で、その単位、段階の例を挙げてみますと、
「イ」を電気性とした場合、「ミ」にはクォーク性があるのです。このことから考察しますと、「ヒ」〜「ミ」に至る状態はクォーク以前の状態であると言えます。しかし、それは「カム」ではないのです。その辺りは「アマ」という言葉で説明されている「カタカムナ図象左側に対して、ある種のエネルギーとして機能する単位」なのです。「カム」はこの両方を合わせたものに対する「反」「虚」の性質を持つ単位、段階であるということです。

(シュレーディンガー方程式などに登場するハミルトニアンで知られた、ウィリアム・ローワン・ハミルトンは、複素平面を立体にしようという試みから、複数の虚数を使用するというアイデアを発展させ、四元数という数学を創り出しました。「カム」方向を指向する人達は皆、いずれ虚の複合性に気付いていくものなのかもしれません。)

前述の2種類の潜象という定義において、「カム」「ヤ」はより奥に潜む潜象であり、前述の物質に対しての電気のような役割関係の時のエネルギーは、縦軸で表され、「キ」「リ」などの言葉で、その性質を説明しています。
冒頭「キ」「キハ、際」のボーダーとお話しましたのは、ここに繋がってきます。
「トキ」という言葉には「キ」の文字が示されていますから、「トキ」は二重潜象の前段(電気的現象に近い方)の非局所的(広域的、環境的)なエネルギーの性質ということになります。これを踏まえて「トキ」を説明していきましょう。




上図はガリレオ・ガリレイの相対論による時空モデルです。
このモデルにおいても、カタカムナ文献の「イマ」の基本的概念は表現されています。
空間が時間経過ととも組み代わっているということです。実際のところ私達人間は、時間というものを直接的に見たり触れたりした経験はありません。物質の変化によって、それを連想しているに過ぎません。草木が芽吹いて、青々と茂り、そして葉は紅葉して、やがて散っていきます。それはその植物の変化に過ぎないのですが、私達はその様子を見て時間を感じているのです。更にそれを具体的に表示するための概念図を見てみましょう。




「トコロ」についての詳細は「トキ」に絡めて少しずつ後述しますが、概念としては上図のスペクトルの分布が「トコロ」であるということになります。しかしながら、 この図には大きな欠陥があります。それは時間経過が一様に表現されているということです。勿論、色分けされたスペクトル毎にその変動を波形として示せば、マルチな時間経過を示すことができます。ところがカタカムナの「トキ」というものは、それだけで表現されたとは言えないのです。
私が初めてカタカムナの「キ」という図象を見た時に、最初に思い起こしたのは次のようなモデルです。




そうです。相対性理論によるヘルマン・ミンコフスキーの時空の光円錐です。
なぜこのモデルを連想したのかと言いますと、カタカムナ図象において「サ」と「キ」の関係は、同じ図象が90度傾いた形で示されていたからです。つまり空間的な広がり(サ)と、時間的な進行(キ)には相関関係があるのです。この表記の仕組みに気付いてしまったからには、もう後戻りできません。

相対性理論に詳しくない方のために「ミンコフスキーの時空モデル」をもう少し説明しますと…
光というイベントが発生しますと、光波の進路は全方位性ですから、球面が拡大していくように捉えられます。それを時空の図(時間を上下に、空間を水平面に表す)に翻訳してみますと、上図のようになります。この場合、時間に次元を1つ割り当てて表現していますから、空間を平面として表すことになります。
上図において、時間は下方から上方に向かい、下の円錐は過去を、上の円錐は未来を表しています。空間座標はニュートン物理である「ガリレオ・ガリレイの時空モデル」と同じく、水平方向の変動として表されています。つまり円錐の断面が空間ということになります。
光がフラッシュして光波を進行する場合、その原点から上の円錐を上方へ向かって広がっていきます。別の表現で説明しますと、光波の進行が、水平に表現された空間を広げていくということです。
また更に興味深いことには、光は過去からも下方にある光円錐に沿って原点に到達することができると、このモデルは示しているのです。
(これが俗に言う「何万光年前の光が宇宙の彼方から…」というような話にも繋がるのですが…、この点について、カタカムナにはまた別の解釈が存在していますので、それはまた別の機会に詳しくお話しすることとしましょう。)




上図をご覧ください。ミンコフスキーの時空モデルは、特殊相対性理論の場合は、光円錐が図のように整列していると考えられます。粒子は未来の光円錐の内部でしか移動できません。光子は上図の赤ラインのように、その円錐の外枠いっぱいの縁(フチ)を繋げて進行します。質量を持つ粒子は上図の青ラインのように円錐内部を移動します。質量を持つ粒子は蛇行するわけですから、これが相対性理論における光速最速とされる根拠です。
しかし、特殊相対性理論では重力は取り扱えません。そこでアインシュタインはミンコフスキーのモデルを考慮して次の図のようなモデルに相対性理論を発展させたのです。





一般相対性理論は特殊相対性理論に重力を取り扱えるように発展させたものです。一般相対性理論によれば、重力場に沿って進行する光は、その重力場の空間の歪みに沿って進行が曲がります。その様子をミンコフスキーの光円錐モデルを当てはめると上図(上段)のようになります。特殊相対性理論と一般相対性理論の違いは、理想状態と実際の状態の違いのようなものです。重力場が平坦な方が理想的ですが、実際の宇宙空間には、様々な質量を持つ物質が点在しており、空間は歪んでいます。
水に例えてみますと… 水の結晶構造は綺麗な方が良いのでしょうが、実際にはその結晶が崩れているケースも多いのです。それでも化学的には、その水は確かに水です。(美味しいか不味いかということについては触れませんが…笑)
同様に光の進行と質量を持つ物質の進行との構造的な関係性は、理想状態であろうと、実際状態であろうと変わりません。光の方が速いのです。
(カタカムナ文献に対応させた場合、重力は「カム」側と現象側の反応と言えます。 その際、接触部分では光の現象が発現します。これは「カム」との代謝であると言えます。それゆえ、その辺りを示す言葉には「ヒカリ」「アカリ」「カカリヒ」「カカハリ」「カカワリ」など…「カ」を含む言葉が多いのでしょう。また、時空間「マ」に「カ」が関ると、その時空間が曲がって変化することから、それを「マカ、マガ」と呼んでいます。)

この「マカ」の「マ」、つまり一般相対性理論による光円錐の曲った時空間には、興味深いケースの可能性を含んでいます。光円錐が傾いていくと、閉じた時間的な進路が発現する…というケースです。つまり時間のループです。
(この件については、デイビッド・ドイチュも量子重力についての研究で触れています。)




またこの場合においても、質量を持つ物質的粒子は、光より蛇行しています。つまりこの蛇行により発生する「事象のバリエーション」に私達は惑わされている可能性があるのです。 同じ時間(トキ)を繰り返しているのに、多少の変動に気を取られ、それが繰り返しであるとは気付いていない…ということです。もちろん、繰り返しによって物質世界に変化があるということは、時間進行に伴う空間における事象は永遠に変化を続けているのかもしれません。それでもこのループについては、一考する価値があるものだと私は考えています。前述の決定論的な考え方や、因果律などの再考です。
(光円錐のモデルは、母線《円錐を展開した時の扇型の半径》の傾きの逆数を光速としています。ですから、 光円錐の内側から外側へ、光円錐外枠を破り貫いて横切るような直線があるとしますと、その傾きの逆数は光速よりも大きくなってしまいます。この基本的な前提との関連性も実に興味深いです。)

カタカムナ文献異本では、そのような進行に関する循環を「ナナヨツキ」と呼んでいます。この循環による周期性については、また別の機会にお話しすることとして、今回は、この光円錐の構造に関る「イハス」という言葉に関して説明を続けましょう。
古事記などにも記されている、あの「イハツチヒコ」「イハスヒメ」の「イハス」です。

「イハス」は「イ」の場である「電気性による物質的な空間の場」、つまり光円錐の断面に対して、斜(ハス)に示される構造があることを示しています。つまりこの光円錐の構造そのものですね。特に「イハス」と言った場合には、過去のエリアを差すことになるのですが、この「過去」という言葉は、現行の相対性理論に則って使っているに過ぎません。なぜなら、前述の非決定論的な因果律の問題があるからです。
カタカムナの示す虚の方向性には、未来のものでも過去のものでも、どちらにも成りうる素材がある…という考え方が必要なようです。そして、それを合理的に認識するためにループ、循環という捉え方をしているのです。
(※「イハツチヒコ」は、「イハ」の場が、軸からのエネルギー供給と「カム環境」との新陳代謝によって存続していることを示し、「イハスヒメ」は、それを実現するために「イハス」の構造があり、そこにポテンシャルが秘められていることを示している言葉です。)



ミンコフスキーの光円錐は、その縁(フチ)と内側という違いは明確ですが、縁(フチ)の位置については、特に定めがありません。強いて言えば、上部の円錐は未来を、下部の円錐は過去を…ということぐらいでしょう。
ところが興味深いことに、カタカムナ文献には、その区分毎に性質が異なることが記されています。これは何を示しているのでしょう?



「ヒフミヨイムナヤコト」 を数詞とみた場合、偶数のポイントは、このサイトの「ク、マク」のページでご説明しましたように、具体的で確定的な状態からみますと消失傾向にあります。それが「暗い」「夜」「奥」「闇」などの語感に繋がったのだと推測されます。偶数ポイントは「ネ」、つまり眠った状態や、地中の根のように、目に見える活動的なポジションに対してオフの状態のように観測されるのです。(実際には見えないところで、その役目を果たしていますから、全く活動していないわけではありませんが…)
また循環する上で、具体的、確定的な位置からの過渡にあることから、「フラフラ」「ユラユラ」「オロオロ」「モヤモヤ」などの振動性や、不確実性が表されています。
それを前提にした上で、「フ」「ム」の方向には、増幅、拡大傾向が、「ヨ」「ヤ」には、現状が環境に還元されることや進路の不安定さによる、弱体化や、不確定性が表れていると言えます。このような、状態、性質の違いはなぜ発現するのでしょう?

(※「カタカムナ文献」は極度に抽象化された図象で示されています。抽象性能が劣化した現代を生きる私達には、この図象のみから、その意味を知ることは難しいのですが、幸いなことに、私達日本人はこの図象の意味することを示す語感を、「日本語」を話す環境で生まれ育ったことによって 身に付けています。ですから、いわゆる理数系と言われる人達には奇妙に感じられるかもしれない、この語感によるアプローチを、幾何学的なアプローチとともに続けていくことが、正解に近付く最も近道なのではないか…と考えています。せっかく手掛かりが2種類あるのにも関らず、片方だけにアプローチするのはとても愚かなことのように思えます。カタカムナの物理はゼネラルや偶構造を指向しているからです。)




カタカムナの物理の特徴は、マンデルブロ集合などで知られる自己相似性と根本的には同じ「ヒトツカタツミ」です。同じ構造、パターンが、それを構成して形作られる次の単位、また次の単位へ…と写されていくことを「ヒトツカタツミ」と表現しているのです。この構造を考慮してみますと、当然前述のモデルにも、所属している系に中心核があり、そこから放出されるエネルギーに該当単位のモデルは晒されていることになります。上図のように、太陽系において、太陽から様々な影響を受けている地球と同じということです。この仕組みにより、季節が巡るように、円錐モデルの位置、向きにより現れる性質が異なるというわけです。

ここまで説明しますと、次のような疑問も湧くはずです…「では、どうしてカタカムナ文献の図象は円錐として描かれていないのか?」
ここから先は、そのあたりを掘り下げてみましょう。

 


「トキトコロ」量子力学、超ひも理論などとの対比 その3 …へ続く

「トキトコロ」量子力学、超ひも理論などとの対比 その1


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