↑ カムナガラノミチウタの一例




おそらく皆さんもご存知でしょう・・・
インターネット上の百科事典と呼ばれている「ウィキペディア」というサイトがありますね。
日常的にも、ウィキペディアを辞典代わりに使用しているケースは、かなり多いはずです。
このサイトにおいても、参照先としてリンクしている箇所がいくつもあります。
通常の辞書辞典には特定の著者がおり、その著者の責任において執筆されていますが、
ウィキペディアは、特定の著者がいないことを特徴としたインターネット上の辞典サイトです。
ある言葉について、それを説明したいと希望した人が、出典先を明記しながら執筆することで、
ウィキペディアは成立しています。
もちろん、その記述に不満があれば、誰でも修正加筆をすることができますので、
ウィキペディアは、常に更新を続けています。
最初の記述時には明らかではなかった事実が、後から明確になった場合などは、
印刷媒体ではないために、その更新は早く、ユーザーにはとても便利な側面があります。
その一方、一般的に興味の薄い対象については、そういった修正、加筆、更新などは遅れがちになります。
最初の執筆者がいわゆる「公正中立」であれば、特にそのような修正は必要ないのかもしれませんが、
執筆者に制限はありませんので、意図的、恣意的に内容を曲げて執筆した場合、
興味の薄い対象については、なかなかそれが修正されることはないという側面もあることになります。
またその逆に、元々正しいはずの内容が、意図的恣意的に修正されるケースもあるわけです。
更に、出典先があれば正しいということが基本的ポリシーと看做されていますが、
出典先が間違っている、あるいは意図的恣意的に表現されている場合にも、
その内容は怪しいということになります。
ただ、このシステムには、長期的に修正作業を繰り返せば、
いずれ、最も多くの人が納得できる内容に落着していくであろう・・・という希望もありますので、
私自身も、この手法に一定の理解は示しているつもりです。
ウィキペディアに限ったことではありませんが、情報を取り入れる際には、その情報源の特徴や性質を熟知しておくことは、現代の情報社会において、とても重要なことのようです。
国内においても、一部の教育機関などでは、既にメディア・リテラシーの教育を始めているところもあります。
(※このサイトのウィペディアへのリンクも、リンク先ページで間違いを確認した場合、
リンクを外すことも視野に入れて、時折チェックすることを心掛けています。)

カタカムナ文献については、「カタカムナ文明」として、ウィキペディアでも紹介されています。
このページの変化はとても早く、カタカムナについて肯定的な執筆者の記述では、非常に信頼性が高く表現され、カタカムナ支持者の信憑性も高く評価されています。
またその一方、その記述に不満を持つ執筆者の記述に変更されますと、一切の信頼性、信憑性は否定され、偽書、捏造の一辺倒の論調で統一されます。
ここ何年かウォッチングしていますと、この肯定否定の修正の繰り返しが続いています。
非常に興味深いのは、他のウィキペディアページで紹介されている様々な言葉の解説記述では、議論の余地のある対象については、「このような意見や推測もあれば、別の見方もある・・・」のように、両論並記になることがほとんどですが、カタカムナについては否定か肯定の極論の繰り返しです。
余程の執着が、どちらの側にもあるのでしょう。
私感としては、およそこのような喧嘩論調(あるいはそれが推測される論調)の場合、どちらにも真実が無いケースが多いと感じています。
以前、肯定的な論調で、カタカムナ文献が紹介されていた際、「カタカムナ文字」の紹介としてサンプル画像が掲載されていました。そこでは「ウィキペディアへようこそ」という文字列が「カタカムナ文字」で表示されているとされていましたが、実は、そこに描かれていた「ペ(ヘ)」の図象は間違っていました。
左右逆の鏡像になっていたと記憶しています。
「カタカムナ文明」を肯定的に紹介しようとする際の資料が、間違って表記されているのですから、そのようなことを続ければ続けるほど、それは結果的に、カタカムナ文献が偽書で捏造だと主張する側の信憑性を高めていると言えます。
カタカムナ文献については、このウィキペディアのケースと同じような例が、様々なところで発生しています。
つまり、カタカムナ文献の信頼性、その支持者の信憑性を失わせているのは、多くのカタカムナ肯定派や、営利的なカタカムナ利用派に拠るところが非常に大きいということです。
スピリチュアル、精神世界、エコロジー、古神道、宇宙人、などなど・・・
これまでも、そのような背景を持つ団体に、カタカムナは利用されてきました。
(※全ての団体が、カタカムナを利用しているわけではありませんので、誤解のないようお願いします。)
こういった団体は、科学否定と現代社会否定が、単純にイコールとなっています。
アンチ科学、アンチ現代社会で、新しい未来が開けるという主旨のようです。
しかしながら、その主旨に反して、カタカムナの持つ「科学的イメージ」を拝借するというケースも、非常に多いのです。
信者獲得のためなのか、それとも、主旨そのものも、適当で、いい加減な設定であったのかもしれません。
その辺りは、本人達に尋ねたところで、はぐらかされるのがオチです。
そういった「はぐらかし方」については、相当訓練されているようです。
そもそも、答えなど持っていないというのが、本当のところでしょう。
「古代の雰囲気が好き」「神秘なイメージに憧れる」・・・
このような指向性を持つ人々にとって、カタカムナは、漠然と根拠を与えてくれるものとして、とても都合の良いポジションにあるようですね。
もちろん、「古代の雰囲気が好き」「神秘なイメージに憧れる」これらは、本来的には、悪いことではありません。
もし、この意味が分からない人がいるならば、その人は、カタカムナ文献の物理体系に辿り着くことは、決してできないでしょう。表層に表れた、分かり易い「正負」「善悪」などでは片付けられない、重層的に存在している虚部を、考察することが出来ないのですから・・・。
また、そういった人達は、即物的なわりには、イメージが全てですから、実際にカタカムナ文献の示す物理体系を、真剣に長い時間をかけて研究したり、吟味したりするようなこともありません。
そのようなことに時間を費やすぐらいならば、楽しい宇宙人談義に興じていたいのです。
そして、決め台詞の「神様(あるいは、それぞれの団体が信仰する対象)が教えてくれるから、そんな小難しいことは考えたくない」と、片付けてしまうのです。
(実際には、本質的な素直さ、自然さがあれば、それほど難しいものではありません。)

(「カタカムナを研究して20年!」と豪語する人にも注意が必要です。
相似象会誌などを購入したのが、20年前であっただけで、
20年間に、どれだけ研究に費やしたか・・・については不明だからです。
カタカムナ文献に限った話ではありませんが、内容ではなく、時間や量の誇張をする人には、
どんな場合でも注意が必要です。)


現状では、カタカムナ文献は、真剣に吟味していない人によって批判され、
真剣に吟味していない人によって支持されているのです。
この2派は、今の社会では、別々の主義主張を持つ人達だと考えられています。
しかしながら、カタカムナ文献の示す「カタ、形態、状態」という観点では、「この2派は、同じタイプである」ということになります。
どこに共通項があるのでしょう?
多くの現代人は、「カタ」と聞けば、具体的なフォーム、パターンを連想します。 つまり「型」です。
ですから、「現行科学を支持する」vs「神秘主義を支持する」というような明確な分類に落ち着こうとします。
カタカムナ文献も、この分類について否定しているわけではありません。
ただ、それに伴って、別の分類が重層的に存在していると示しているのです。
そちらの分類を考察してみますと、
「現行科学を支持する」「神秘主義を支持する」・・・この2派の背景にあるのは、
自分自身の感覚や経験に基づくことのない(あるいは、非常に短絡的な経験に基づく)、
限定された識者の意見の中から選択した支持であるということが見えてきます。
既に集団として体制化されたものは、それだけで、何かしらの権威を持っています。
その権威の傘の下に入れば、細かいことは考えなくともよくなります。
また、ちょっとしたきっかけで、その体制に何かしらの問題を感じたとしても、その体制に与していれば、その意見に逆らうことは、自らの立場を危うくすることになりますから、口を噤んでしまいます。
結局のところ、何も考えないことと同じになるのです。

では、それに対する「カタ」とは何なのでしょう?
それは、「現行の科学についても、神秘主義思想についても、どこに真実があって、どこに問題があるのか・・・それを吟味して、常にアップデートしていこうとするスタンスを持つ人達」という「カタ」です。
そういった人達は、短絡的に安直に物事を片付けません。
そのような指向性を持つ考え方を、効率的とは考えていないのです。
なぜならば、そのような考え方は、中長期的には、非常に大きな問題を発生させ、効率どころか、大きなマイナス要因になることを知っているからです。
この考え方に基づいて、カタカムナ文献を吟味していくという方針ならば、まず、既存の権威である団体のポリシーを参照して、カタカムナ文献関連の信頼性、信憑性を議論するという選択の割合は、非常に低くなります。
(逆説的に参照するなどの場合は、その選択肢もあるでしょう。)
その代わりに、既存の体制の説であっても、支持するところは支持して、更に検証し、カタカムナ文献との一致を探るということは、大いにあり得うる手法となります。

実際のところ、数千年以上経過を推定している文献について、今現在、現物を証拠として提示することは不可能でしょう。
他の多くの研究が、そうであるように、その系列系統を探って、元を辿るように推測していく手法が妥当です。
しかしながら、現行科学の権威を指向する人達の、カタカムナ文献に対する否定論の多くは、
「現物を出せ! 現物が無いのならば、それは間違いだ!」という主旨の論調がほとんどです。
先にも述べましたように、古文書という観点から言えば、最も信頼に値するはずの古事記ですら、現物は無いという状況です。
カタカムナ文献との相違点は、古事記には非常に大きな権威権力が、その背後に存在しているというところです。
「権威権力さえあれば、内容は吟味しなくとも正しい」
「権威権力が無いものは、吟味するという作業すら、する必要はない」
このような、権威を盲目的に指向する風潮が変わらない限り、カタカムナ文献に対する批判は継続していくことでしょう。

(内容や意味を汲み取るのか、それとも、出典元の権威が全てなのか・・・
このような問題は、ブログ「保育園落ちた日本死ね!!!」でも話題になりました。
「子供のいる女性も、就職して仕事をしなさい・・・」と、推奨している国が、保育園などを整備しないために、仕事に就くことができないことを嘆いたブログです。
この悲痛な嘆きについて、近い境遇の方々を中心に、共感が瞬く間に広がりました。
ところが、国会でそれが取り上げられますと、「誰が書いたんだよ?」「出典は!?」と、次々と汚い野次が飛びました。〈これを受けて、当初は匿名であったブログ発信者は名乗り出ました。〉
また、この問題について、論点が全くズレていることについても、多くの批判が上がりました。
野次を飛ばした国家議員の意見としては、「匿名、出典元の定かでないものは議論する価値がない」ということなのでしょう。おそらく、本人達が、これまで「体裁こそ命!」で生きてこられた結果としての意見なのでしょう。
ところが世論は、「問題はそこではない! 問題は、そういう事例が多いことに数多くの人が困り、その嘆きに共感している点だ・・・」と、全く別の観点であることを指摘しました。
本質と体裁の違いが分からない人は、どこにでもいるようです。)



それでは、カタカムナ文献の信頼性、信憑性を、どのようにして確認したら良いのでしょう?
私達が採用しているのは、しばしば犯罪捜査などで用いられる「状況証拠」を集めるという作業です。
日本語は、古代から今現在に至るまで、日本社会で通用しており、その語感、音感と、カタカムナ文献の示す物理との一致が、どれほどの割合で存在するのか・・・という考察は、統計という形で、確認することが可能です。
「語感、音感は、人によりまちまちだ!」という意見もあるかもしれませんが、
それについても、また、多くのデータを集めることで、統計を取ることは可能です。
この作業をしていますと、カタカムナ図象でしか説明し得ない事例(同音異義語の謎など)が、数多く存在することが分かってきます。
今後も継続していけば、更に興味深い結果に辿り着くことになると確信しています。

また、現行の物理学、数学(幾何学、位相幾何学)、医学などとの一致についても、統計をとっていくことは可能です。こちらについては、一致するところが、ある一定以上の割合で存在するのならば、カタカムナ文献が、全くの支離滅裂な代物ではないことの証明になるはずです。
実際、この一致については、驚くほどの精度で、現代の学問の最高峰に肉薄していると言えます。
もし万一、この文献が楢崎皐月氏の捏造(創作)だったとしても、この場合、内容については、非常に価値の高いものであることになります。
楢崎氏存命中の科学的常識と、現行の科学的常識は、その後の時間経過に伴う科学の進展とともに異なってきています。それにも関わらず、当時、既にそのような内容を記していたということは、原日本人と推測される人達がそれを知っていたか、楢崎氏が知っていたか、そのどちらかということになります。
そのどちらが知っていたとしても、それは、とてつもない発見と言えるでしょう。
しかしながら、前述の「古語から現行日本語に及ぶ、日本人が受け取る語感、音感の一致」を見る限り、楢崎氏の捏造の可能性は、ほとんど無いと言えます。
日本語は長い歴史を持ち、広く通用してきました。指数関数的に発展した後から、その数多くのニュアンスに合わせて、整合的に別の理論に置き換えるのは、確率的にも不可能だと思われるからです。
また、そのような現行の科学などとの一致の上に、まだ現行の科学などが示していない「物事の捉え方」が、更に提示されているとすれば、それを吟味しないという愚かな選択は、私にはできそうにありません。




カタカムナ文献は、義務教育の必須項目でもありませんし、その内容を知れば、資格が与えられて、
ビジネスキャリアに何かしらの得を与えてくれるものでもありません。
カタカムナを、吟味、研究するもしないも、全く本人の自由です。
それは、カタカムナに限ったことではありませんね。
カタカムナを研究していることで、誰か他人に迷惑を掛けることもありませんし、その研究について、脅迫的に「直ちに中止しろ!」と言われるのは、甚だ心外なのですが、時には、そのようなご連絡を頂くこともあります。
確かに、問題のある宗教団体などが、これを悪用しているのならば、話は別・・・となりますが、単に個人の興味として研究することが、そのような連絡をしてくる人物、団体に対して、どれほどの不利益を生じさせると言うのでしょう?
実際のところ、単なる「毒吐き」、あるいは、このサイトで否定的に紹介している犯罪的な行為をしている団体の、
ネタばらしされたことに対しての嫌がらせ・・・などに過ぎないと、判断しています。)

私達は、興味を持たれた方々に、この文献の可能性を紹介しているに過ぎませんので、カタカムナを研究することの是非を論じる戦いに、参加するつもりは全くありません。
そのようなくだらないことに時間を費やすことの方が、先にお話した非効率的なものに思えるからです。
この先も、個人個人の興味の対象として、更にこの研究を継続していく所存です。
また、ご紹介してきましたポリシーに賛同して頂ける方は、是非ご参加ください。
体裁や権威ではなく、内容や本質に興味がある方々には、意義のあるものになると確信しています。

(私達がカタカムナ文献の勉強会を行っている理由は、こちらのリンクでもご紹介しています。)





 

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カタカムナ文献 その信憑性についての考察 1

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