↑ カムナガラノミチウタの一例



第二次世界大戦前、また戦中は、政治軍隊が神道の教義を自らの活動に都合の良いように改ざんして利用していたために、その管理下にない神道関連書物は、危険思想としてタブー視され表面化できない状態にありました。しかし戦後の自由化により様々な拘束が無くなり、それまでタブー視されてきた古文書の類いが、一般の人々の目に触れるところとなりました。いわゆる第一次の古文書ブームや古代文明ブームです。
カタカムナもそれらと同様の括りにあるのでしょうか?

現在もカタカムナ文献に興味を示す多くの人達が、そちらのルートから来ていることは間違いはないでしょう。
一時話題になった「トンデモ」という言葉があります。世界の奇人変人などを取り上げて、その主張の滑稽さ奇妙さを笑う…という主旨の「ト学会」という団体が流行らせた言葉です。その団体に所属するある人物が書いた「日本トンデモ人物伝」(文芸社)という本にも、他の様々な古文書関連人物とともに、カタカムナが取り上げられています。
その本は「トンデモ人物」毎に、その人その人の滑稽な部分や、奇異に感じるポイントをついて纏めるという形態で文章を進めていくのですが、カタカムナの章では次のように問題を指摘しています。
宇野氏が主催していた相似象学会会誌1〜8号においてはカタカムナ文献そのものが活字化されることなく、ダミーの歌を活字化して宣伝していた…というのです。9号になって初めて原本を掲載したが、それ以前の会誌にはそのカタカムナ文献そのものが意図的に示されることがなかったことの不誠実さを、カタカムナ文献及び、それを勉強する人の「うさん臭さ」として感じ取れるように取り上げていました。

これは本当なのでしょうか? 本当に宇野氏、楢崎氏は不誠実だったのでしょうか?
かつて熱心な相似象学会員であった方には説明不要であると思いますが、会誌1〜8号においてはカタカムナ文献異本と推測される「間之統示」「神名比々軌」「神名比備軌」という古文書からの文章を掲載しています。
しかも、その経緯については丁寧に説明されています。
カタカムナ文献は原典と見られるため非常にそぎ落とされた表現で示されており、現代人がいきなりその意味を読みつけるには難易度が高いため、楢崎氏が解読に利用した同系統(同じ文字列が見受けられる)ではあるが後代に編纂されたであろう古文書の方が、現代人にも比較的理解しやすいことから、それらを手掛かりに、まずその言い回しや、世界観に慣れて貰おう…という理由で、異本→原典という順番にしたということなのです。
(私が個人的に収集した古文書にも同系統の書物がありました。その一部は「お問い合わせ先」のページに掲載しています。)
また、例えば相似象学会誌第3号54ページに「ヒフミヨイマワリテメクルムナヤコト…」とありますように、カタカムナ文献そのものが掲載されていないわけでもないのです。

要するに、この「トンデモ本」の作者は、批判ありきで文章を書き、それをそのまま出版をしているということなのです。よく取材したり吟味したりという作業が無いままに、故人であることを良いことに、その人格を誹謗中傷しているに過ぎないのです。会誌は非常に内容が多く、文章を読むのにも時間や手間が掛かります。そのため適当に読み飛ばし、きちんと読むこともないままに文章にしていたことは容易に想像がつきます。この作者の文章に拠りますと、参考にしている会誌は1〜9号ですが、実際にはその後、宇野氏が亡くなる2006年までに16号まで刊行されており、取り扱われたカタカムナ文献原典は72首に及びます。
この「日本トンデモ人物伝」(文芸社)は初版は2009年ですから、実際には十分に取材することは可能だったわけですが、おそらく会誌を購入する取材費を惜しんだ…というようなお粗末なことが理由だったのではないでしょうか? 三流ジャーナリズムというのは何やら物悲しいものですね…。




ところで、私はカタカムナ文献を手放しで信用し、超古代文明を信用しているのか?といいますと、実はそうではありませんでした。ありませんでした…と言うより、今でも多くの方々が拠り所としている古代のロマンには興味がありません。古代マニア、日本マニア、和風好み、神道マニア、神社仏閣マニアなどではありません。もちろん和食が好きであったり、日本人の持つ独特の他人に配慮する性質などは好きだったりはするのですが、前述したような所謂固執したマニア、コレクターではないのです。

私が最初に宇野氏にお会いした時にお話したことは、次のようなことです。
まず第一に、この文献が何千年、何万年前のものであるとか、そういったことにはあまり興味がない。それよりもこの文献に示されている内容と自分が知っている科学識との相似部分に興味があること。そして宇野氏の人柄が他の眉唾な新興宗教の教祖や自己啓発セミナーの類いの主催者のようにアッパーで、高揚感を売りにしているタイプとまるで逆であったことに興味と好意がある…というような主旨のことをお話しました。
それに対して、宇野氏は「それで結構です。そのバランス感覚で、より良くこの文献を吟味してみてください。それこそがカタカムナを学ぶということなのです。そしてもし私や楢崎先生の解釈に誤りがあれば、それは正して後世に残しておくべきのなのです。」とおっしゃいました。
私はこの宇野氏の誠実さに惹かれて、全くの好奇心のみで、宗教的信心などないまま、カタカムナ文献を吟味してみようと決めたのです。
もちろん今も宗教的信心などはありません。それは一般的な現代の日本人という意味です。
確かに深いところでは自然への強い畏敬の念はありますが、 形骸的に信仰スポットなどへ通ったり、超人的なヒーローとしての神などの概念を信用したりということがないだけです。
その反対に全てをありのままに見たいという好奇心は人一倍強いようです。
これまで、その強い好奇心でカタカムナ文献の解読とともに、それを取り巻く信憑性の検証も試みてきました。その一部をご紹介していきましょう 。
(カタカムナの発見の経緯などは、他の様々なサイトで、あれこれと取り上げられていますから、ここでは割愛させて頂きます。)




先に述べましたように、私自身はカタカムナ文献がいつ頃の代物なのか、全く興味はありません。年代よりもその内容に興味があるのですが、一般的にはそうは行きません。世間は許さない…というような話ですね。
ですからまずカタカムナ人というような人種が存在した可能性があったのかどうか…というところから検証してみました。

日本人起源説はいろいろとありますが、ある時期までは「日本には土着の民族はおらず、日本人の祖先は外来した…」という説が一般的でした。そして、なぜ日本にはネイティブがいないのか?という素朴な疑問に答えてくれる人もいませんでした。
しかし、 私の調べたところによりますと、非常に興味深い説を唱えた研究者がいらっしゃいました。埴原和郎という東京大学で自然人類学を専攻された方です。自然人類学といいますと、あまり耳馴染みのない学問ですが、考古学などの仮説の実証のために、遺跡や人骨などの年代測定を行い実務的な判断を下していく研究を行っていると言えば分かりやすいでしょうか…。この埴原氏の実地の測定やそのデータ統計によると、私達現代の日本人は、中国大陸からの移民と、原日本人と見られる民族との混血なのだそうです。遺骨のDNAの調査によると、大陸からの移民は、関西あたりから上陸し、東西へ広がっていったのは明らかだそうです。彼の結論によると、アイヌ、琉球と呼ばれる民族の方がより日本人的である…ということなのです。
これらの事実から読み取れるストーリーは、それまでの多くの考古学、また歴史学のストーリーとは大きく異なります。
おそらく外来種は侵略者であり、土着の原日本人を追いやったと見るのが妥当でしょう。征服されたエリアは混血化し、逃れたエリアはより原日本人のDNAが色濃く残ったものと見られます。

しかしなぜそれまで、このようなストーリーが研究されなかったのでしょう?
その点について埴原氏は興味深い発言をされていました。それは自然人類学という研究は、そもそも歴史家の仮説の実証のために測定をする学問という位置付けであったために、そういった理系の科学的な裏付けとは無関係に、まず歴史家が望むストーリーありきで研究が進み、そのストーリーに合致しない測定結果は排除された…ということが原因のようです。この点においては言語学も同様です。
そしてその背景には、天皇制であるとか、アイヌ、琉球などへの根深い差別感情などがあり、現代の中心的な日本人と呼ばれる人達に都合の悪いストーリーは却下されたというのです。

最近になって、そういった日本の歴史背景による事情とは無縁の海外の研究者や、その共同研究による国内の研究機関(総合研究大学院大)などが同様の研究をしたところ、アイヌ民族と遺伝的に最も近かったのは沖縄出身者で、ついで本土出身者であることが判明しました。また本土出身者は韓国人とも近いという研究結果もでました。それは日本人全般が縄文人の遺伝子を受け継いでいる一方、本土出身者は弥生人との混血の度合いが大きく、混血しながら北海道や沖縄方面に広がっていったと解釈できるといいます。
これまでは日本人の起源として、縄文人がそのまま各地の環境に適応した「変形説」、縄文人を弥生人が追い出して定着した「人種置換説」などがありましたが、「混血説」というのが正解であると、この研究結果から結論付けられたのです。

楢崎氏によれば、カタカムナ文献を秘匿していたのは山の民、俗称ではサンカと呼ばれた人々か、それに類似する人々であるそうです。(北へ追いやられたのがアイヌ、南は琉球、山はサンカと言われています。)もしそうであるならば、カタカムナ文献は原日本人の使用していた記号、言語である可能性もあるわけです。もちろんそれだけで簡単に結論とするわけにはいきませんが… 「可能性はある」ということです。
ただもしこの原日本人がカタカムナを使用していた民族であるならば、カタカムナ人というものは、ある日こつ然と姿を消した謎の民族などではなく、れっきとした私達の祖先であり、私達は混血化したとはいえ、その血を受け継ぐ民族だということになりますね。

※サンカと呼ばれる人々は現在もなお日本国籍を持たず、現代の日本社会とは直接関係無いままに、私達現代の日本人と平行して暮らしています。ですからアイヌ、琉球以上に、原日本人の文化をそのまま継承している確率は高いと思われます。

(蛇足ですが… そもそもカタカムナという名称は本人達が名乗っていたわけではなく、文献を発見した楢崎氏が頻繁に登場する言葉であることから、便宜的にそう呼んだまでのことです。
縄文人、ネアンデルタール人…などと同様のネーミング主旨であると考えて頂ければ、ご理解頂けるのではないでしょうか?
このサイトをご覧の方々には「我々は宇宙人だ…」というようなニュアンスでカタカムナ人というネーミングを捉えるような低レベルな人はいないと信じたいですね。)

 



カタカムナ文献 その信憑性についての考察 2へ続く

 

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